14才の頃のわたしへ
いつも一日になんども、伝えたいなっていうことが浮かんでくるよ。
今インスタグラム(自分の好きな写真や文章をコレクションしてシェアできるプラットフォーム的な、「個人が作れる雑誌」とも言われている)で好きな人たちを見ていたら、
名前をアルファベット表記にして、
その人の国籍とか、生い立ちとか、わかんないの。
英語話してて、熱帯っぽいところにいる子とか、どこ生まれどこ育ちかなんてわからない。
それはたしかに、オランダとかでも感じた…。
どんな見た目(肌や目の色)の人がどこにいても不思議じゃない。
みんなが自由な風に生きているんだなっていうのを感じると嬉しくなる。
とくに目にするたびに勇気をもらうのは、Koshiさん。
https://www.instagram.com/koshi_playearth_13/
三ヶ月くらい前にたまたま映画上映会とアフターパーティーで会って、
そこで初めてその人の活動とか発信を知ったけど、こんな人がいたんだな!って、
なんだか噛めば噛むほどって感じに、きっと私だけじゃない、
子供のころからきっと誰もが望んでいたことの本質を、
(もちろん、すべてがリンクしているわけではない気もするけど)
話してくれて、書いてくれて、
そういう存在が沢山いてくれるから、きっと勇気をもらえる人がまた沢山増える。
そうやって、彼らも誰かから勇気をもらってきているのかもしれない。きっとそうだ。
そうして自分と同じ根源的な願いを持って、それを公に話している人がいる、
ということの確認が何年も(きっと10年以上)続いて、もう何十人もそんな人たちに会ったり、その人たちの文章に触れたりすることで、わたしはようやくほっとした気がする。
ネットには「共鳴、団結」の力があるんだ。
14才のころのわたしは、(きっと今の14才の子たちよりもさらに)
「自分にはあまりそんな力はない」「一体どうやったらいいの、誰がそんな力を持って助けてくれるの」って思ってた。
そのときの苦しさや諦めが、今でもどこかで忘れられない。
後悔は消せることを知ってるから、
きっとこれはまだ消しきれてない、癒しきれてないあのころの想いだ。
わたしの中でずっとなぜか、あの頃のわたしの群像みたいなもの(中学生くらいの頃のわたしたち)に
力があるということを伝えたい。
どうにかして力になりたい、励ましたいという気持ちが消えない。
きっといつか満足したら消えるのだろうけど、まだ消えてない。(2024年7月)
そう!それで。。
きっとナニ人っていうのは、(あと性別や年齢もきっと)霞んでいって、
わりとどうでもいいことになっていくんだわ。(同じ地球!っつって)
互いの名前。互いの今。
そう思った。
それは嬉しいことじゃない?
今のわたしは「どちらかといえば、うん」だけど、(それだけ解消されたってことだよね)
14~22才くらいの頃だったら、けっこう悩んでたし、苦しんでたから。
ただあなたでいるだけでいいの。
それがみんなの共通認識。新しい常識。
新時代の常識、みたいなものは、加速度的に共有されて目にする機会が増えていってる気がする。
それはあたたかくて、やさしくて、
「誰もが自分の決めたように生きることを尊重し合う」というのが、理想的、理知的に、
一人一人の言葉や試み、共鳴から、
実現し、より強固なものになっていっている気がする。
それをこの二十数年、たとえ日本においてであっても、思うのだ。
よ。