21/9/2022 6日目
ホモ・ルーデンス
いつからか、それを証明してみたい。
こんなにも「楽で便利」が追及されたこの21世紀で、食べるのがおそい小学生~高校生であった私は、急かされたり責められたりするたびに、「ゆとりある生活をおくる」ために諸々の発展があるのでは、ないのか?と燻る胸の内にきいていた。
そんなに「生存のためのお金」のために働く必要はないのではないか?という問いに対しては、 田舎暮らし、 支出が少ない週2、3日勤務の生活 そしてもちろん他者との共住 など、人の数だけその人の解があるように、今の私には思えているけれど。 それでもまだ就活に頭を抱える同級生や、早朝電車で眉間にしわを寄せて眠るスーツのおじさんたちを見ていると思う。ほんとにそれは彼らに必要なことなのか。
22歳で初めて日本から10ヶ月程離れて欧州で過ごしたあと、久しぶりに日本の町に吸い込まれた私は、その目に映るtoo muchさに辟易とした。
広告が多すぎる。ちまちまとした小銭の関わるキャンペーンが多すぎる。あったら痒い所に手が届く、、、いや、いらなくないか?という製品が所せましと並んでいる。
数少ない手持ちのもので、工夫してなんとかすることができて、それが楽しいので私はすきだ。クリーニングに今までなら出していたであろう、古着で買ってきたコットンギャバジン*のトレンチコートやウールのマフラー*2などを、中性洗剤と洗濯機できれいに洗えたときは、おっかなびっくりだったけれど、一つ一つの繊維の具合の変化がわかって、たのしかった。
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目が細かく編まれているからか、水をはじく機能を持った素材。と思っている。ほんとに自分のコートがコットンギャバジンかどうかは誰にも確認していない。
*2羊毛は、ヒツジの待遇、環境がよくない場合があると知ってからは買わないようにしている…
ホモ・ルーデンス
の本をまだ読んでいないが、私の願うことは、少なくとも今のこの国においてはそれなのである。もし、腹の底からいいと思えていない仕事をして、なにか歯車がずれていると感じるなら、ホモ・ルーデンスになってみてもいいんじゃないか。一時的にかそうではないかはわからないけれど。認知的不協和の渦から離れることが、ひとりの人の幸せで、それは全然知らない人にも繋がっていて、…場合によっては、もしかしたらいい意味で地球環境問題にも繋がるだろうと、夢想するときが時折ある。
vocation(必要とされ、呼ばれることで行われる仕事)や、Constant Nieuwenhuys(というわたしの大好きな立体作品を作られた人)についてもまた書きたい。
p.s. 先日、朝日新聞のGLOBEで読んだ不耕起栽培(耕さないほうが、土壌の生態系を乱さなくてよいということらしい!)が面白かった。なるほど、そういえばそうだよな、と思った。
養老孟司先生へのインタビューの中にあったお考えは、今日のテーマを久しぶりに思い出させてくれたものであったので以下に引用する。
もしかしたら畑を耕しているのと同じで、何もしなくても同じぐらい効果が得られるのかもしれないのに。
2022年9月18日(日) The Asahi Shimbun GLOBEより