これはただの振り返りのようなものだ。
お題は「こわいもの」。
饅頭とか。ではなく。
いつのまにか自分の世界観を構築していた、「世界像」「世界のしくみ」の自分バージョンの設定、幻想はどんなものだった?
それは新聞が言ってた?
他の人たちの言動をそのままに吸収した?
ずっと一緒にいた親が言ってたこと?
わたしがこわかったこと。
・お腹が空いて…関連。たとえば、とても皆ひもじいときに、わたしは一つの食べ物を他の人へあげられるか?狂ってしまうか?
・理解しがたい危害を加えてくる人が、自分や仲間を襲うこと。
・災害、飢饉、戦争など。
・お金がない関連。
・視力関連。
そういったこと一つ一つを、ずっとどこかで見つめながら、やはり本当はこわくないし、大丈夫だという実験や証明をした。
空腹関連は納得しやすかった。
まず無限の豊かさを信じられるようになるまでの証拠観測も大事だったが、人がどれだけ食べずとも大丈夫かという事例収集、それに自身で断食をすることはなにより納得を得やすかった。
断食はこわいものじゃないし、いつでも試せるからな。
わたしはお腹がすくと人はイラつくものだと思っていたし、実際そう思っている間は空腹や食事の有無に過敏に反応していたけど、断食に関して調べていくうちにそもそもの思い込みが払拭されていった。
それにラマダンで日中飲み食いをしない、でもすごく穏やかで忍耐強いカナダ人の友達との出会いなども、直接わたしに「わたしもこうなれる」と示してきた。
・海がこわい。深い水がこわい。
そういったものも、ちょっとずつ、そうじゃないという心の中の信念と一緒に近づいていったら、本当にこわいものじゃないと心から思えることに出会えた。
心のどこかにある信念は、それが確かめられて、全身で明らかに堂々と、当たり前に信じられるときを楽しみに待ってる。
そうなんだね。
大学に居た頃、こわくないって教えてくれた、いろんな人たち、わたしの世界を開けて広げる後押しをして、こわくないというその先の世界を先に行って見せてくれた大好きな人たち。いつもありがとうと思ってる。