21/ 10/ 2022
昨日、ゼミの発表を、なんとかやった
帰ってすぐに、昼寝をした。
帰りのバスを待つ間に図書館に行って、何冊かの本をぱらぱら読んだ。
『いつまでも美しく』という本のことを、今日何度も思い出す。インドのスラムでの3年余に渡る綿密な調べをもとに描かれたノンフィクションの話だ。
ゴミを売って生計を立てる。
インドでは輪廻転生の考えが浸透していて、人口も多いから、死が軽い?いや、そんなことはない。若者たちは一人一人の死を悲しむし、彼らの倫理的なふるまいを見てきた。そのように著者であるアメリカ出身のKatherine Booさんは書いていた。
他に手に取った本のなかには『我が子を食らうサトゥルヌス』という絵を表紙にした、世界約8か国ほどの国々での幼児の搾取について取り上げた本もたまたまあった。それらの本が、たとえ8年前、14年前などのものであっても、…きっと「なにかしら」今もあるだろう。それはもはや世のことわりのように、確信のようにある。
なぜ争いがなくならないか、の答えの一つに、それが生物的に自然だから、のようなものをこの間どこかで見た。オスが互いに争う事例をいくつかの動物から持ってきて、そう言っていた気がする。
死のない世界は歪で、破壊 分解 消失のない世界は歪だと思う。それらと生は一体で、同一であると感じるからだ。生だけなんて、いやだ。そんなのは息苦しい。
ここで、いつもよく思い出す、陰陽、太極図(今日名前を知った)の話をしよう。
イタリアのシチリアの真ん中で、御年80程のじいさんが言っていた。道教、陰陽についての考え方に、そのとき以来影響を受け続けている。今年の5月のことだ。あれから5カ月経つなんて、早いのか遅いのか、へんな気分だ。
「いいところ」 だけの人間なんていない。裏と表がある。この壁にうっすら刻まれた太極図(陰陽魚)を見てごらん。黒も白も同じ存在に両方混じりあって存在しているだろう。わたしはこの考えに昔から共感しているんだよ。
と。
わたしはそのおじいさんのところで二週間いたが、そのうち始めの一週間は、フランス人の女の子も一緒だった…。体は逞しく、綿のセンスのよい服(すべてセカンドハンド、中古らしい)をいつも着ていて、とてもかっこいい人だった。ベジタリアンでフェミニスト、双子の妹と共に中東、アジアなどの国々に行って見聞を広め、ときには難民の女性の支援をしにボランティアに行ったりもしたと話してくれた。なんでも進んでやる、よく歌う、やさしくて賢いその子に、すぐに憧れてしまった。フェミニストについてもベジタリアンについても話を色々したが、わたしはベジタリアンになることをその子から学んで選んだ。
その子が去ってからのおじいさんとの二人きりの山中での生活の折につけ、わたしはその子のことを恋しがって、おじいさんにその子について懐かしむようなことを言った。(おじいさんに「僕がその子じゃなくてごめんね…」とまで言わしめてしまった。)
おじいさんは陰陽について話しているとき、その子についても触れた。
わたしは、その子の「わるいとこ」なんて思い浮かばないよ。と言った。
しかしおじいさんは、いや、あの子だってね、「最後までコトを終わらせる」ということをしない節があったよ。と言った。
のちにその子からおじいさんへのメッセージで、「同時に二つ以上のことはしない、ということを学んだよ。これからは、一つ一つのことに真っ直ぐ向き合うよ。」とあったから、たしかに、「ちょっとよくないトコ」もなるほどあるのだろう。なるほどそれは、自然だ…。それは一緒にいる人の捉え方に寄るんだろうけれど。
おじいさんは私についてはこう言った。
君はyang(yin だったのかもしれない。それまで陰陽道も道教もほとんど関心を寄せたことがなかったから、混乱してしまった。陽の方だろうと思うことにした)の方が強い…。あっちに行ったり、こっちに行ったり…、farfallina、蝶々みたいだね。
そう言われた。
敷地内の木の一つに、1.5cmほどの小さな白い蛾のような蝶のようなの(farfallinaと呼ばれていた)が、たっくさん集まる木があった。それについて話したこともあったから、わたしはおじいさんからすれば、あれらの蝶のようにひらひら落ち着きがないのかもしれないな…。と思った。
たしかに、どの町に行ってもあっちを見てはこっちを見て、ショーケースやスーパーの棚をじっくりと見ては、ほーほー言っている私は、自覚はあった。自分はこの町に一日しかいれないんだぞ!そこのけそこのけ、だなんてしないように、限りがあるという当然の理を心底理解して、すでに満たされているのだから、急いてはいけない、あっちこっちに行こうと欲を出してはいけないということを行動を通して会得するのに、いったいどれだけの小さな反省を要しただろう! (翻訳された文章みたいな口調だ)
話が逸れてしまった。
これがわたしも共感した、陰陽についての話だ。
なにが言いたいのかというと、つまり、…言いにくいが、貧富、「ある」「なし」、戦争と平和、「憎しみ、怒り、悲しみ」に対して考えられがちな「喜び、希望、エキサイト」。それらが片方だけということは、ある意味無理がある、健全、でない、いつかどこかでほころびが生じるのではないかという感覚が一貫してするということだ。
争いも、理不尽な人災も望まない。それはそうなのだけれど…
(追記)
いや!ちがう! そういう考えで〆たかったのではないんだ。
今日、試しにカヌレを家で作ってみて、意外とちゃんと焼けて、「今日もnice trail~」なんて思っていながら、同時に最初にあげたような本のことが頭にあったのだ。
だれもが温かいおいしいものを食べることができて、それによって元気が出たり、また「やるぞ~」って思えるといいなと、ずっと前に思ってから、今もその気持ちは変わっていない。
わたしは自分(たち)だけはあたたかいところでぬくぬくと守られながらいようなんてやっぱり思えない。
わたしは幼稚園にいたときから、心の底は変わっていない。野良でいたい。
かすかな差こそあれ、結局はサバイバルだ。
卒業後「なんの保障もあるのかないのかわからないけど」「とりあえず安牌で」就職だ。従業員になる。なんてナンセンスだ。全身で拒否する。
「保障」なんていつどこにあっただろう。わたしは生きたいところに生きる。もうさよならなら数えられなくなるくらいした。今だってさよならの前にはすこし動きたくなくなるけれど、それでもわたしはもうさよならを躊躇わない。
わたしは「保障」なんてない方に行く。自分の立てた仮説をまた証明するために行く。それこそがわたしであるから。わたしが知りたいことを知りながら搔き分けていくのはわたしだ。
だからせめて止めたりなんてことはもうしようとしないで、もう願い飽きるくらいだけど。