11/ 10/ 2022
珍しい時間にこれを書いているね
さっき大学のキャリアセンターにオンラインで相談をして、話をきいてもらった。
嬉しかった。
うれしくってぞわっとして、面談が終わって、カーテンを開けて、「嬉しいぞー!!!!!」って叫んでしまった。同時に泣けた。
表現活動 をしていて、オーストラリアに行きたくて、向こうに行ったところで「一端どこかに就職する」などというあてもなくて、そもそもその選択がいいのかもわからない
一週間、二週間経ってくるだけで、オーストラリアよりアジア圏や中南米への気持ちの方が今度は膨れて来る。
それらを「きっと多くの人には、それで”大丈夫”なのか?」って思われるんだろうな、って、思って勝手に、殴られる前にお腹に力を籠める(東京リベンジャーズ式)ように、防衛策を自然と講じてしまっていたのは自分だ。
だから、就活エージェントの人と話すのは大体つらかった。前提の考え方。見てきた事例がちがうから、わたしの言うことを、その人の枠からはみ出しているものとして、言動で削っていくから。
でも、今日話してくださった「相談対応者」の方はちがった。
どんな小さなことでも否定しないように日頃からきっとされているのだろう。起業したいという人や、そのように周囲に事例の少ないことのために反対を受けることもあって泣く人もあった、というようなことも少しおっしゃっていたから、きっと…。
その方は一緒になって目を輝かせて話してくださった。叶うといいね、実現するといいねと何度も言ってくださった。
「表現活動は決してやめないでね」 「表現活動はとめないで」
「表現活動はとめるとなんだか…むずかしくなったりしちゃうでしょう」
そう言われてドキッとした。ここ数日、いつものなんでもない文章をここに書かなかった。それが私のなかで「フゥン?」と居座っていた。
決して忘れない
やめないで といわれたこと
とめないで といわれたこと
わたしのたからものだ。
「いつだれが見るかわからないでしょう。 だから表現活動はやめちゃだめ」
そんなことが言えるのは、表現活動をしていた人か、そんな人を身近に持っていた人くらいだ。
その方は私がなぜ”表現活動”をしたいと思ったのかと尋ねられたので、わたしは理由の一つに、岡本太郎さんに影響を受けたと述べた。文章を書くのが好きで、服でも工作でもなんでも、設計でも、研究でも、それらをしていることが、わたしが生きていることと同義なんだと思える。そう説明しながら、そうだ、そうだったのか、と思った。
岡本太郎展、10月初めまで中之島でやっていたよね?それに行ったの?行きそびれちゃって…とその方が言ってくれたとき、とても嬉しかった。そうか!この方のような人も岡本太郎展に足を運ぶ人たちのひとりであったのだな…と思うと、すこしほっとするような、あたたかな喜びがした。
表現活動はやめちゃだめ
これを言ってもらえることが、いったい孤高に近い感覚を携えた者として、どれだけ救いになるか。
それは一人で抱え続けてきた麦袋を半分一緒に持ってもらったかのような、寄り添われるようなものであった。
わたしが何を表現しているかも訊かずに、それでもやめちゃだめだときっぱりと言い切ってくれた。
きっぱりと…。