7/ 10/ 2022
東京リベンジャーズを読み返して、二度目で、今の状況だからこそわかったことがまた一つある。
わたしはなんとなく大寿くんがすきだったのだが、小学生くらいの頃の大寿くんが言っていた言葉が、意外なことにリフレインしている。
八戒(弟)のことが好きで、強くいてほしいから、その期待が裏切られるとかえってよりつらいんだ
というようなことを殴ったあとの八戒に言っていた。
私はこれを自分と母国、日本に重ねて反芻している。欧州から帰国して三ヶ月弱、その間になんども沸き起こっては苦しんだのは、勝手な期待や理想というこだわりを、自らが生まれ育ったがために持ち続けてしまっていたからなのだと。
同じ家に住む家族でさえこうも違ったこだわりや考えをしていることを知っている。この国民性、国の歴史のいいと思うところも知っている。だからこそ、あまりに多くの人が、膨らみはしゃいでいないこの国が、くやしくて、浅慮で自らのことに必死でいながらも虚しそうなさまがやりきれない。それはかつて5歳そこらだった私が見たら”おとな”としか言いようがない今の自らへの怒りのように感じるし、それと同時にこのあらゆる構造、それらを構成する一人一人のささいな決断の欠如、そういったあらゆることを想像するばかりの状況に再び陥っている己への、再び、怒り…。
手押しポンプの手洗い石鹸が切れて、化粧用固形石鹼のストックが多かったので、これからは固形石鹼にしようと家族に提案して、今日からそうなった。
16/2/2023 追記
「無自覚の期待」については今でもふと思うときがたまにある。
しかしこうして10月の頃はまだ憤ったりしていたが、それから1か月ほど経つうちにはもうこれらの気持ちはなくなった。
「かくあるべき」ということはなく、私のもっていた「よし悪し」像というものは突発的である意味一元的だったと思うようになった。
ただ、今はこういうときなのだ。
人口が活気が半世紀前と比べてひっそりとしているとしたら、それはそれでいいじゃないか。
町を歩いていて、まるで時が止まってるみたいに古びているなと驚いたとしたら、それもまた面白いじゃないか。
いまはそう思っている