性、「性」性?
性エネルギーについて、どうしても言及しておかなくてはならない。
そんな気がしてしょうがなかったので、今回一回目の、性エネルギー、性性について書こう。
わたしがスペインのオルヒヴァで会った、ドイツ人の女の子の言っていた言葉が今でも鮮明に残っている。
そしてそれは、当たり前のようでいて、なつかしいようで、
しかしわたしが思い出したかった、今より強く取り戻そうとしている、受け入れ解放しようとしていることとも思えた。
その子はこう言った。
「わたしは全然疲れないから、だいじょうぶ。 性エネルギーでいっぱいだから(ウフッ)。
だから考えすぎたりして頭が疲れて眠る、っていうことはあるけれど、體が疲れるっていうことはないの。」
わたしが居たそのオルヒヴァのコミュニティは、スピリチュアルな人々が主催してボランティアを募っていただけあって、見事にみんなエネルギーやハイヤーセルフ、メディスン、瞑想、そういったことに対する意識が深くて、
それはまるでほんとうに奇跡のように、同じような志向、志、の自分が拡大して、より鮮やかに力強く集ったみたいな時間、空間であった。
その性エネルギーについて話してくれた子は、とても自由で(18の頃から7年間ずっと旅をしながら転々としているらしい)、野性的で強くてかわいくてセクシーですこし飄々としてるけど、落ち着いていて、その子が依頼を受けて、そこでワークショップをしていたのだった。
それは泥や粘土と藁で建築物を作るというワークショップ。わたしたちはそれを手伝うことをメインに招集されたのだったが、そこで行われる日の出と日の入りのときの祈りの儀式など、スピリチュアルの観点からの興味も人々を惹きつけたことと思う。
話が逸れたけれど、
性エネルギー
それは彼女からダイレクトに面と向かって(英語でだったけど、たしかsexual energy)言われる以前から、わたしのなかで復活していっていた概念、意識。
わたしは、3歳だったかそれ以前だったかくらいからすでに、自分は恋多き者だな、と思っていた。
なんだかエッチな感じの描写にもどうしても惹きつけられた。
しかし、それをどこかの段階で、情熱がどこかへ行ってしまったかのように、
そして、実家にいるし、なんだかばつが悪い感じ…?と思ったりしたことから、目を向けないようになった。
感じないように、聖俗の俗、汚れている、というような感覚も少しまだあったように思う。
大学の部活の同期たちも、なんだかフィクションの影響か、あらぬ幻想をわたしや「女性」という存在全般に向けているように感じたりして、それらへの戸惑いや不快感も、混乱や忌避を加速させた。
性エネルギーについて、ただまっすぐに
わたしが、純粋にそうだよなって、ただ嬉しくそう思わせるように語ってくれたのは、誰だっただろう。
バシャールだったかもしれないし、YouTubeで見た、にちゃんねるまとめの宇宙人への質問みたいなものだったかもしれない。
シャーマンriyoさんも性エネルギーについて、とても共感できる解釈や発信をしていらした。
性エネルギーは、、
愛で、 バイブレーションで、 すべてで、 光で、 輝きで、 …
わたしの卒論のテーマは16世紀のイタリアの高級娼婦、詩人であったベロニカ・フランコだから、娼婦についてもいろいろ調べた。
というか単純に娼婦について興味があった。
そこで何度か目にしたことに、巫女と娼婦についてがあった。それが今も印象に残っている。
というのも古代ギリシャなどでは、神殿の巫女たちが、たしか神事の一環だったか、性交をするのだという。
はじめ巫女に対して、性交とかけ離れたイメージをいつのまにか持っていたわたしは、巫女が性交を、それも巫女として行うということにかなり動揺したけれど、今ではなかば納得している。
性交はなにもいやらしいこと、忌避すべきもの、低俗なことなどではないのだ。
宇宙、自然、ワンネス、エネルギーの躍動…
タントラではたしか、性交は愛のあまり、気づいたときには始まり、また終わっているとあった気がする。
それはまるでお金のようだな…とわたしは思った。
実態はただ愛なのだ。想い。
愛がただあって、どうしようもなくしあわせで、そのなかに性交という瞬間も存在する。
愛があって、喜んでほしかったり、ただ感謝したかったりしたくて、そのなかに、そのわきにお金という存在が見えることがある。
きっとそんな感じなんじゃないかな。